台湾の元慰安婦女性たちの証言
カテゴリ:従軍慰安婦
右翼日本人が普段、親日認定している台湾の女性たちが「日本軍の性奴隷にされた」と名乗り出ているわけだが、これでも連中は従軍慰安婦の強制性を否定し続けるつもりなのだろうか?おそらく右翼小日本人どもは彼女らと同じようなひどい目に遭わされない限りはその悲痛な気持ちを一切理解できないのだろう。つくづく小日本の愚劣さには呆れ返るばかりである。
目次
盧満妹さんの証言
(1926年生まれ。台湾 新竹県、客家出身)
(17歳のとき、海南島で看護婦の助手を募集しているといわれた。文字が読めないといったら食堂などの給仕の仕事があると言われ、ついたところが「慰安所」あった。貧しい暮らしだったので家族を助けようと思ったのに・・・。)
小さいとき兄弟姉妹が10人以上いましたが、養女として別の家で育ちました。
養父母は私をたいへんかわいがってくれましたが、家は貧しく養母はお茶摘みをし、養父は傘などを地方を回って売ったりしていました。
17歳のとき、海南島で看護婦の助手を募集していると声をかけられましたが、文字が読めなかったので食堂でウエイトレスの求人があるといわれ、いつもいっしょに遊んでいた友人2人といっしょに行きました。
私は、家計の助けになると思ったのです。
何日も船にゆられて、そこに着いてはじめて、そこが食堂ではなく、慰安所であることを知りました。
どうにかして逃げようとしました。
そこには台湾人の女も日本人の女もいました。
慰安所の親方は日本人の男で、わたしたちに毎晩客をとらせ、コンドームを配りしまた。
最初のときは恐ろしくて激しく抵抗しましたが、とうとう日本兵に強姦されてしまいました。
その後わたしは妊娠しましたが、それから8ヵ月以上も接客を強要されました。
その後わたしは病気になり、利用価値がなくなったのかもしれません、医師が証明書を出してくれて、自分で船のキップを買って台湾に帰りました(お金はチップなどを貯めていたものです)。
帰ってから男の子を出産しましたが、生まれた子は38日目に死にました。
両親もあいついで世を去り、わたしは土木工事やセメント工事の下働きをしました。
故郷の人たちに、わたしが海南島へ行って「慰安婦」をしていたことが知られると、わたしの評判は悪くなりました。
38歳のとき、人の紹介で結婚しました。
夫は、はじめはわたしに対してよかったのですが、あとでわたしの過去がわかると、外に女をつくりました。
わたしたちの感情に隙間が広がりました。
わたしたちには息子ができましたが、小児麻痺にかかり、両足にハンディをもってしまいました。
いまは、その夫は亡くなっています。
わたしは息子ともらった「孫」といっしょに暮らし、警官の服の洗濯をして、わずかな収入を得て暮らしています。
わたしは日本人を恨んでいます。
日本の若者はこのことを知りません。
台湾の若い世代のどれだけの人が知っているでしょうか。
だれがわたしたちの苦しみを理解できるでしょうか。
黄呉秀妹さんの証言
(1917年生まれ。台湾 桃園 客家出身)
(23歳で強制的に広東省河南市に連れて行かれた。出発前に軍医に全身裸にされて検査された。)
9歳のとき、トンヤンシーとして売られました。
養父は早く亡くなったため、養母はわたしを咎め、わたしに辛く当たり、屏東の酒場にわたしを売りとばしました。
23歳になって、店主にお金を払って自由の身になりたいと思い、ちょうどそのころ海外で働く人を募集している人がいたので、何もわからないままついていきました。
わたしのほかに3、40人の娘を乗せた陸軍の軍艦が出航しました。
広東に着いて、仕事というのが「慰安婦」だということを、はじめて知りました。
1人に1部屋があてがわれ、毎日2、30人も押しつけられ、身体は死んだようになって、ただ苦しく、なんの感覚もありません。
身体中が苦痛に苛まれているなかで、ときにはコンドームが破れ、紅薬水で消毒しなければならず、そのときは跳び上がるほどの痛みを覚えました。
逃げたくても逃げるところはなく、見張りは厳しく、親方は非常に乱暴で、ピンタをくわせるのです。
憲兵も外で見張っていて、いつも外へは出られません。
日本軍の将校は、位が高いほど、わたしたちに対して凶暴でした。
いつも短刀を腰に下げ、お酒を飲んだときにはいつでも、わたしたちに大声で怒鳴り、短刀を振りまわして脅します。
とても恐ろしかったです。
どんなことをされても耐え忍ぶしかありませんでした。
故郷の家がなつかしく、こっそりと人に頼んで本当の父親に手紙を書いてもらいました。
父はあらゆる手をつくして、いろいろな関係を通じて領事館と交渉し、非常に重い病気にかかっているという口実で、やっと、あそこから脱出できました。
台湾に帰ってから、34歳で結婚しました。
相手は外省人の兵隊でした。
彼はわたしに厳しく、夫婦のあいだには睦まじい感情はありませんでした。
夫が生きているあいだは、恐ろしくて「慰安婦」にさせられていたことは知らせませんでした。
もし彼が知ったら、きっと、わたしはさんざんな目にあわされたでしょう!
鄭陳桃さんの証言
(1922年生まれ。台北市出身)
(1942年にインド洋アンダマンへ連れて行かれる。アンダマンの海をみながらいつも泣いていた。学校へ行く途中だった。普通の女の子だったのに・・・。死ぬ思いで帰国したら、「汚い女」とののしられ、それ以来家には帰らない。)
私が幼いうちに両親が亡くなりました。
学校へ入ってまだ一ヵ月もたたないある日、警察の前を通ったときに、日本の警官が車でおくってあげるといわれ、そのまま高雄の港へ連れて行かれました。
家族に別れを告げる機会もないうちに、海外に連れていかれて、「慰安婦」になることを強要されました。
戦争が終わってから、小さいとき、かわいがってくれたおばあさんに会うことを心の支えに台湾にもどりました。しかし、たどりついた家にはおばあさんはすでに亡くなっており、姉夫婦にいわれた「きたない女は家にいれない。うちにはそんなきたないい女はいない」という言葉に、大きな衝撃を受けました。
帰ってからは、当時の苦しみを人には話しませんでしたが、2度自殺をはかりました。
悲しかったです。
このとき家を出て以来、2度と家の門はくぐっていません。
「慰安婦」にさせられたために、子供の産めない身体になりました。
のちにどうにか結婚はしましたが、子供を産めないために、婚家はわたしに離婚をせまりました。
再婚した夫は交通事故で他界しました。
以後、わたしは、たった一人で暮らしてきました。
わたしはあのころのことを忘れません。
普通の女の子であったわたしが、理由もなく強制的に海外に連れていかれ、日本兵にわたしの一生を台無しにされました。
いつも満ち足りない思いで、毎日思い出しては泣き、悲しくなってお酒を飲み、飲みおわると、ご飯も食べずに眠っていました。
台湾に帰ったばかりのころ、わたしは人から笑われているのを感じていました。
わたしは市場で椰子を売っているので、知り合いも多く、わけもわからずに背後で嘲り笑う人もいて、とてもつらい思いをしました。
あるとき、ニュースで「慰安婦問題」のことを知って、自分で申請に行きました。
同じように被害を受けた姉妹たちと知り合い、逃避は解決の方法ではなく、もっと勇気をもつように励まされました。
こうしてわたしは、やっと、過去の影からゆっくりと歩みだしたのです。
わたしは、自分がかつて「慰安婦」だったという秘密を、自ら語りはじめました。
とうとう告発する機会がおとずれたのだと信じたからです。
わたしは日本に対する告発を放棄するわけにはいきません。
日本政府はわたしの青春を奪い、わたしの一生を破壊したのです。
彼らは、彼らの犯した罪に対して責任を負うべきです!
雷春芳さん(ショバイ・ウミンさん)の証言
(1915年生まれ。タロコ族、中国名 雷春芳)
(2004年2月1日 逝去されました)
(子どもをつれて部隊で働いていた。やがて副隊長が騙して洞くつへ連れこまれ、強かんされた。)
わたしは花蓮天祥のスワサン部落で生まれました 。
わたしが長女で7人の弟妹がいました。
17歳になったとき、両親が定めた相手と結婚するために榕樹にきました。
女の子を8人生みましたが、そのうちの4人は亡くなりました。
まだ若かったころ、夫がニワトリを盗んだということで監獄に入れられ、獄死しました。
若かったわたしは、山でアワ、サツマイモ、トウモロコシなどを植えて、子供たちを育てました。
31歳のとき、榕樹に倉庫部隊という日本軍の部隊が駐屯することになりました。
500人余りの部隊です。
近くには兵器弾薬を置く洞穴があります。
部隊の副隊長ナリタ軍曹が、駐在所のタキムラ巡査部長を訪ねてきて、このあたりに部隊で洗濯やボタンつけなどの仕事をする女性がいないか聞いていました。
タキムラは最初にわたしのところに来ました。
わたしが未亡人で、子供も多く、そのうえ生活に困っていたからです。
ろくに考えもせずに部隊に行って働くことにしました。
勤務時間は午前8時から午後5時までで、洗濯、給仕などの雑用をして、兵隊の世話をするのです。
けれど、仕事をはじめて5カ月後、副隊長に騙されて洞窟のなかに連れ込まれ、強かんされました。
ただ涙を流して、苦しみに耐えるしかありませんでした。
だれにもいえない暗黒の「慰安婦」生活がはじまりました。
なかには凶暴な兵隊もいて、殴る蹴るの暴力を振います。
「性の仕事」を仕切ったのは副隊長で、6人の娘たちは、毎晩1人から2人の日本兵の相手をさせられたのです。
日本軍が去ったあと、わたしはダロウダンと結婚しましたが、のちに彼はわたしの過去を知り、わたしを叱責し、暴力を振るったり、辱めたりしました。
わたしの家庭生活は楽しいことはなにもない、苦しい日々でした。
いまは娘の家で暮らしています。
中風で寝たきりなので、娘に面倒をみてもらっています。
日本軍の「慰安婦」にさせられたことは、わたしの心に深い傷をつくりました。
84歳のいまでも、わたしの一生でいちばん苦しかったあのころのことは忘れられません。
李淳さんの証言
(1920年生.22歳の頃、フィリピンで被害を受けた。隣人から区役所の抽選に当たったら仕事が出来ると告げられた。)
生まれて2ヵ月で養女に出されました。
家が貧しかったので学校へも行かれませんでした 。
16歳で結婚しましたが、間もなく離婚し、男の子が一人残りました。
21歳のとき、「ウエイトレス」を募集している日本人夫婦を知り、30数人の娘たちといっしょにフィリピンに向かいました。
娘たちは新竹、南港、基隆などからきていました。
最初の契約では1年8ヵ月の仕事でした。1年8ヵ月たったら、親方はわたしたちを帰し、別の娘たちが交代することになっていました。
わたしたちは船でマニラに着き、ある地方に連れていかれ、一人ひとりに1部屋が割り当てられました。
そこではじめて「従軍慰安婦」にさせられることを知ったのです。
日本兵と台湾人軍夫だけが、親方からコンドームをもらえるのです。
週一回の身体検査がありましたので、性病にかかることはありませんでした。
日本人はいい人も悪い人も、酒を飲むと人を叩き、刀で脅しました。
あるとき、わたしは日本の将校に、おはようございますといったら、なぜか殴られて、もうちょっとで殺されそうになりました。
台湾に帰ってから、わたしは非常に恥ずかしいと思い、人に知らせはしませんでした。のちに両親だけにはいいました。
わたしは洗濯などをして生活を支え、今は息子といっしょに暮らしています。
台湾に帰ってからは、ずっと身体の調子が悪く、36歳を過ぎたころから腰に鈍痛をおぼえ、背中が痛み、すべての収入は医薬代に消えていきました。
あのとき日本兵にぶたれた左耳も、聞こえなくなりました。
帰ってきたばかりのころは非常に腹が立ちました。
自分が日本人に騙されたことを思うと、たまらない気持ちになりました。けれど騙されたことは騙されたのです。
「一日過ぎれば、一日死に近づく、どうしようもない!」
ニュースを見てはじめて、訴えることができることを知りました。
日本人に対しては、深い恨みを抱いています。
彼らは自分たちが悪いことをしたことを認識しないのです。
世界中の人たちが笑い物にしている悪行をしておきながら、まだ隠そうとする。「国民基金」で騙そうとする。
人の生命が一斤の米より価値がないと思っているようです。
ひどいです!
林雪英さんの証言
(1922年生まれ。ミャンマーに連行される)
(広州の織物工場で働いているときに日本の軍人が3人(一人は通訳)がきた。「泣いたら殺す」と銃で脅された。日本軍は敗戦で撤退するとき、「慰安婦」を殺すか、戦場に置き去りにした。)
1942年、日本軍に捕らわれたあの日のことを、わたしは永遠に忘れない。そのときわたしは20歳で、広州の小さな紡織工場で働いていました。
突然、銃を持った男たちをつれた日本人の将校がやってきて、わたしと2人の同僚を捕まえて、トラックで、どこかの長屋に閉じ込めました。
そこにはたくさんの部屋がありました。
わたしたちは、出してくれと泣き叫びましたが、ドアには鍵が掛けられ、窓は釘を打って開かないようにしてしまいました。
そのうえドアの外には看守役の日本兵がいて、逃げることはとうていできません。
その後、毎日、大勢の女の子が捕らえられてきました。
年齢は17歳から21歳ぐらいです。路上や市場で捕まった人もいれば、家で戸口調査の名目で捕まった人もいました。
この先どうなるのかわからず、とても恐ろしい思いでした。
10数日後、人数が250人に達すると、一晩のうちに日本軍の命令で広州の埠頭に送られ、船に乗せられました。遠くへ送られるようでした。
1ヵ月あまり後に、サイゴンで船を換えました。
すでに日本軍区に入っていました。
表面的には誰にも監視されていないようでしたが、実際にはいたるとこに視線がありました。
逃げようとした女の子が捕まって、連れ戻され、日本軍に電気椅子に座らせられました。
日本軍は、各部屋から2、3名の女の子をつれだして、その刑罰の様子を見るように命令し、逃亡するものには重い刑を科すといったのです。
最後にヤンゴンに着くと、日本軍の車に分乗させられビルマの各軍区に送られました。
わたしはヤンゴンの軍部に送られました。
わたしたちは軍区の近くに連れていかれ、わたしたちの面倒を見るという日本人のオバサンが来ましたが、名目は面倒を見るという親切なものでしたが、実際は監視するための人でした。
このあと軍医が来て、わたしたちに服を脱がせて検査をしたあと、将校の相手を強要しました。
最もひどかったことは、敗戦のとき、日本軍は彼らの非人道的な残忍な行為を隠すために、私たちを殺害したことです。生き残ったものは20数人にすぎません。
生き残れたわたしは幸いなのか、不幸なのか。
めちゃくちゃにされた身体。
避妊薬性病予防薬の定期的服用からくる絶え間ない痛み。
いま、わたしは老い、そして病んでいます。
いつになったら日本政府の謝罪が得られるのでしょうか?
わたしの潔白を返してください!
高宝珠さんの証言
(1921年生まれ。2006年2月18日死去)
(1941年、広東からミャンマーへ連れていかれる。17歳のとき、「お国のためだ」と召集された。台湾の伝統の歌を歌う仕事をしていたので兵隊さんに歌を歌ったりする奉仕活動だと思っていた。)
父親はわたしが4歳のときに亡くなり、母を助けるために、13歳でお座敷で歌を歌いました(注:仔歌という台湾伝統の歌)。
15歳のときに母も亡くなりました。
ひとりぼっちで頼る人もいなくなって、16歳で結婚しましたが、夫婦の感情はしっくりせず、1年で離婚しました。
17歳のとき、招集通知がきて、基陸から船に乗りました。
船で広東の寒山寺から香港、シンガポールを経て、最後にビルマに着きました。
わたしの乗った船が潜水艦の爆撃を受けて、そのときの衝撃音で耳が聞こえなくなりました。
ビルマに着くと車に乗せられ、部隊について田舎や山間部を通りすぎました。
そこには朝鮮人、広東人の慰安所もありました。
慰安所は、わたしたちに1ヵ月に半ダースのコンドームしかくれなかったので、とても足りず、わたしたちは川に行って洗いました。
軍医は毎週わたしたちの身体検査をしましたが、妊娠してしまう人もいました。
そんな人たちも、妊娠7、8ヵ月まで休むことができませんでした。
わたしは故郷を思い、家を思い、いつも歌を歌いながら泣いていました。
まるで籠の鳥で、自由はなく、いつになったら故郷に帰れるのでしょう。
戦争が終わって、やっと台湾に帰りました。
行く前に好きな男性がいました。
彼はわたしにとても好くしてくれ、わたしが帰ってきたら結婚しようといっていました。
けれど、わたしが帰ったとき、その人はすでに別の人と結婚していました。
実際にはわたしの身体はさんざん痛めつけられ、子供も産めなくなって、結婚なんてとてもできませんでした。
30歳を過ぎたころ、すべてに絶望して、睡眠薬を16錠飲んで自殺をはかりました。
指の甲が黒くなり、道端に横たわっていたわたしは、道行く人にたすけられました。
その後、わたしは35歳まで、あちこちを流浪する生活をしていました。
41歳のとき、姉の紹介で後妻になりました。
当時のわたしは、運命に見はなされ、とても貧しく、嫁入り道具はなにひとつありません。
後妻にいった先には4人の女の子と5人の男の子がいて、結婚生活は想像していたほどいいものではありませんでした。
集金の手伝いやら子供の世話、炊事などで、ただ忙しいだけの日々を送りました。
海外で「慰安婦」とされた女は、だれにも必要とされないし、人から軽視されると、わたしは思いました。
心のなかには苦痛がつまっていて、泣いても涙も出ない!
わたしはほんとうに日本人に腹を立てています。
彼らはいったのです、
お国のために、
国家のために忠節をつくせと。
それならば、わたしたちは誰のためだったのか。
日本人は、日本人には行かせずに、わたしたちばかりを行かせた。
そして、わたしたちをだれも必要としないほどめちゃめちゃにし、人に軽蔑されるようにした。
日本人は、いまでもまだ過ちを認めようとせず、知らないふりをしています。
こんなひどい話はありません!
わたしは日本政府に正式な謝罪と賠償を要求します!
黄阿桃さんの証言
(1923年生)
(1942年~1945年までインドネシアに、仕事があるといわれて連れて行かれた。南洋で看護婦の仕事があるといわれた。でも字がよめないと言ったら「飯炊き」の仕事もあるからとのことだった。しかし、着いたところでは日本軍の性暴力に耐え続けなければならなかった・・・。)
小さいころ家が貧しかったので、学校へは行かず、家で食事の支度をしたり、弟や妹の世話をしたりしていました。
父親はわたしたちに対して厳格だったので、わたしは20歳になっても、まだ結婚せず、恋愛をしたこともありませんでした。
あるとき、南洋で看護婦の仕事があるという貼り紙を見て、友人に誘われて申し込みました。
当時は戦争の関係で、田舎には仕事がなく、男でも女でも海外に働きに行きました。
われわれを必要としている仕事があれば、われわれは喜んで行ったのです。6カ月だけ行けばよく、契約をする必要もありませんでした。
一組の日本人の男女がわたしたちを連れて、高雄から船で出発し、マニラに着きました。
そこではじめて、「慰安婦」にさせられるのだということを知り、怒って日本人のところへ行って抗議しましたが、家には帰してくれません。
日本人は、「お国のために軍をねぎらう」という名目で、わたしたちに「慰安婦」になることを強要しました。
最初に犯されたときに出血し、悲しい思いで布で包みました。
家に持って帰って両親に見せたかったのです。
昼間は兵隊に、夜は将校に犯されつづけ、休息をとるひまもありません。
日本兵のなかには、酒を飲むとわたしたちを叩く人もいました。
つらい思いで目をつぶり、歯を食いしばって、日本軍の兵隊の性暴力に耐えました。
一度、逃げようとしたら、憲兵に見つかって兵営に連れもどされました。
恨んでもどうしょうもなく、毎晩泣いていました。
インドネシアでは盲腸炎の手術、爆弾の破片による右目の失明、腹部の負傷による子宮の摘出など、身体の各所を損ない、言い表せないほどの苦しい日々でした。
のちに戦争が拡大したため、3年後にやっと台湾に帰ることができました。
台湾に帰ってからも眠れぬ夜がつづきました。
自分は、もう価値がなくなって結婚もできないと思い、悲しい思いでした。汚れのない娘が、日本人に踏みにじられたのです。
のちにわたしと結婚したいという人が現れましたが、コンプレックスを抱いていたため返事ができませんでした。いっしょに台湾に帰ってきた友人が、こういいました。
「歳をとってから、お互いに助けあう伴侶がいることは、すばらしいじゃない。」
わたしは、よく考えて、結婚に同意しました。
現在、わたしは夫と孫といっしょに暮らしています。
わたしは、よく廟に行き、観世音菩薩に許しを乞います。
「慰安婦」になったのは、自分で好き好んでなったのではないけれど、人に騙されたことも、一種の罪悪です。
わたしは拝んで懺悔し、お経を唱え、廟の仕事を手伝ったりしています。
- 最終更新:2015-03-01 06:49:24