南京大虐殺の証拠の一つ・日本兵の日記や陣中日誌

カテゴリ南京大虐殺


南京大虐殺の加害者たる日本兵たち自身の手でリアルタイムに記録された資料があるにもかかわらず、虐殺を否定することなど出来ようか?これら日本兵による記録の数々も南京大虐殺が事実であることを裏付ける証拠である。


目次


山田支隊山砲兵第十九連隊第三大隊 黒須忠信上等兵の陣中日誌


「山田支隊山砲兵第十九連隊第三大隊 黒須忠信上等兵の陣中日誌」

(十二月十六日)午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面に向かう。二、三日前捕慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を持って射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突き殺したことであろう。

山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ(し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。

帰りし時は午後八時となり、腕は相当つかれていた。

参考資料:
(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)


上海派遣軍司令部野戦郵便長 佐々木元勝の日記


「上海派遣軍司令部野戦郵便長 佐々木元勝の日記」

十二月十六日-

……新局舎の前には、軍帽を被った支那兵(士官)が脚から腹のほうを焼かれ、まだ、燃えている。壊れた煉瓦の上では、少し前殺されたらしい中老の死体が、口と鼻から血を出して倒れている。・・・・・・麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した二百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。・・・・・・夕方頃、自分で通った時には二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。

(中略)

・・・・・・碼頭の局に行った運転手の兵等が、だいぶ遅くなってからドヤドヤ帰ってきたが、碼頭で二千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で撃ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。三人四人づつ追い立て、刺しても斬ってもご自由というわけで、運転手の兵も十五名は撃ったという。

参考資料:
(「証言による「南京戦史」(9) 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 青木書店 所載)


第六師団歩兵第二三連隊の一兵士の従軍日記


「第六師団歩兵第二三連隊の一兵士の従軍日記」

十二月十五日-

今日、逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行りだした様子。

十二月二十一日-

今日もまた罪の無いニーヤ(中国人のこと)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。

参考資料:
(「朝日新聞」一九八四年八月五日付 「天皇の軍隊と南京事件」所載)


第一六師団第二〇連隊 牧原信夫上等兵の日記


「第一六師団第二〇連隊 牧原信夫上等兵の日記」

〔一一月十八日〕

ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、老人が持たないからといって橋から蹴倒して小銃で射殺しているのを目前で見て可哀想だった。

〔一一月二二日〕

道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。橋の付近に五,六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。

〔一一月二六日〕

(中略)自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊達は早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。

〔一一月二七日〕

支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。

〔一一月二八日〕

午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。・・・・・・自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げていく。何のために逃げるのかわからないが、逃げるものは怪しいと見て射殺する。部落の十二,三家に付火するとたちまち火は全村を包み全く火の海である。老人が二,三人いてかわいそうだったが命令だから仕方がない。次ぎ、次ぎと三部落を全焼さす。そのうえ五,六名を射殺する。意気揚々とあがる。

〔一一月二十九日〕

武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の戦で破れてより全く浮き足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地に立てこもるのかわからないが、全く見えない。

〔一二月一日〕

途中の部落を全部掃討し、また船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一軒家に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。

参考資料:
(「京都師団関係資料集」「南京難民区の百日」および「南京事件」 笠原十九司 所載)


  • 最終更新:2013-05-22 22:46:28

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